こんにちは。ボン姉です。
いよいよ緊急事態宣言が発令されますね。
先程、銀行に行ってきましたが、表参道は今までで1番人が少なかったです。
この間の週末よりも人が少なく、まだ発令前だというのに、緊急事態宣言の言葉の威力を実感しました。
実際に発令されて、効力が発生したら、さらに人が少なくなることが想像出来ます。
少しでも早く元の生活に戻るには、今は我慢する事が1番の近道だと思います。
だから今は外出を控えて、おうち時間を楽しみましょう!
このブログが少しでも皆さんの暇つぶしになれば嬉しいです。
では、本日は青山の歴史をご紹介させて頂きます。
青山の地名の由来や土地の歴史、あなたはご存知でしょうか?
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青山とは?
青山とは、表参道駅の東側一帯に広がるエリアの地名です。
住所としては、南青山と北青山になります。
青山という地名は、江戸時代に大名を務めていた青山家の下屋敷があったことにちなんでいます。
そもそも江戸時代のこのエリアは大名屋敷が広がっていた場所だったそう。
青山家は古くから徳川家に仕え、関ヶ原の戦いののち、大名になりました。
現在の青山通りの北側に宗家の北青山家下屋敷、南側には分家の南青山家下屋敷があったのです。
「青山霊園」は南青山家下屋敷の跡地の一部を利用して整備されたのだそう。
梅窓院
そして現在も南青山2丁目にある「梅窓院」。
「梅窓院」は徳川家康の家臣であり、老中も務めた青山幸成の死後、青山家下屋敷内に建立されたことがはじまりです。
「梅窓院」という寺の名前は青山幸成の戒名から名づけられたのだそう。
ちなみにこの「梅窓院」、平成16年にリニューアルしています。
デザインを担当したのは、なんと世界的な建築家・隈研吾氏。
都市の寺院にふさわしく、広く一般の人々も受け入れられる「集いの広場」、「コミュニティー」を作りたいという梅窓院の願いに、隈氏は、瓦屋根のお堂もない、お堂を巡る回廊もない、まったく新しい建築をもって応えたのです。
ここ「梅窓院」は前面道路がの交通量の多い青山通りになります。
そこからのアプローチが重要と考え、お寺にアプローチする間に、気持ちが静まって、仏様と対話ができる様に、アプローチを竹を用いてデザインしたとの事。
お寺の本体には、屋根や格子といった日本の伝統的モチーフを、現代の技術でさらにシンプルに磨きあげて、寺のもっている「静寂」を建築の形にうつしかえようとしたとの事。
ちなみに現在の「梅窓院」の境内は約3000坪。
建立当時の「梅窓院」はなんと12,000坪もあったのだそう。
現在の4倍の広さになります。
しかもその広さが青山公の下屋敷の一部というのですから、一体当時の武家屋敷はどのくらいの広さだったのかと、あらためて驚かされますね。
徳川の歴代将軍に仕え、幕府を支え、地名にもなった青山家は、本家が現兵庫県の篠山で、そして分家は岐阜県の郡上で、それぞれ明治維新を迎えます。
「梅窓院」を建立した青山幸成は、家康、秀忠に仕えた青山忠成の四男で、郡上青山家の流れになります。
青山家は幕府のお目付役的な譜代大名で、交通の要衝、問題のおきた藩などを統治することとなり、転封、引っ越しが多くあったのだそう。
郡上八幡で明治維新を迎えた青山家も、それまでにあちらこちらに移ったとの事です。
その影響もあり、現在でも「梅窓院」近くの「秩父宮ラグビー場」で「郡上おどり in 青山」が行われています。
今もなお、この様に江戸時代の名残を感じることができるのです。
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根津美術館
そして青山エリアには多くの文化施設が集まります。
エリアの北東にあるのは「根津美術館」。
「根津美術館」は鉄道王として知られる実業家で、政治家・茶人でもあった根津嘉一郎氏の所蔵した日本・東洋の古美術品コレクション 全4,643点を、保存・展示するために造られた私設美術館です。
国宝「燕子花図屏風」を所蔵することで知られています。
この「根津美術館」がある土地は、江戸時代には江戸定府を務めた河内国丹南藩藩主・高木家(美濃衆の一家)の江戸下屋敷があったそう。
江戸幕府が滅びた後、高木家は明治2年に定府の任の免除を朝廷に願い出るべく京都に赴き、これを認められ、二度と東京に戻ることがなかったため、主に打ち捨てられた江戸下屋敷はすっかり荒れ果ててしまうこととなったのだそう。
そこで根津嘉一郎氏は、故郷から東京へ本拠を移したちょうど10年後の1906年(明治39年)になってこの土地を取得し、ただちに邸宅の建設を始めると共に、数年がかりでの造園にも着手しました。
初代根津嘉一郎氏の没後、家督を継いだ2代目がこの邸宅を美術館に改装。
その際、母屋を本館としたそうです。
が、1945年(昭和20年)5月には、所蔵品を疎開させた後の美術館が戦災に遭い、本館は展示室など施設の大部分を焼失してしまいます。
そして戦禍を受けた旧本館を取り壊したうえで、同年2代目となる本館を9月に竣工・開館。
が、その2代目本館は、2006年(平成18年)5月8日から取り壊し工事が始まります。
そして建築家・隈研吾氏の設計による新展示棟が竣工し、2009年(平成21年)10月7日に開館し、現在に至ります。
上の写真の入口を入ると、右手にこの通路があります。
この通路を通ると、青山の雑踏から一気に別の世界に来たかの様な気分になります。
根津美術館は展示品も素晴らしいのですが、お庭も素晴らしいのです。
ここが青山とは思えませんよ。
茶室もあります。
根津美術館の紅葉はとっても綺麗で、私のお気に入りです。
根津美術館のお庭を見るだけで、旅行に来た気分になれますよ。
岡本太郎記念館
そして「根津美術館」の西には、日本を代表する現代美術家である岡本太郎の自宅兼アトリエを改装した「岡本太郎記念館」があります。
「岡本太郎記念館」は、1996年、84歳で亡くなるまで、岡本太郎氏のアトリエ兼住居でした。
1954年から五十年近くも岡本太郎氏が生活した空間なんです。
絵を描き、原稿を口述し、彫刻と格闘し、人と会い、万国博の太陽の塔をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所。
更に言えば、ここは戦前は青山高樹町三番地。
岡本太郎氏のご両親である岡本一平・かの子、そして太郎の一家が永く暮らした土地。
一家でヨーロッパへ旅立ったのもこの地からだそう。
その頃の家は戦災で焼失してしまいました…。
戦後、友人の坂倉準三氏の設計でアトリエを建てます。
ル・コルビュジェの愛弟子だった坂倉氏は岡本太郎氏の求めに応じ、ブロックを積んだ壁の上に凸レンズ形の屋根をのせてユニークな建物を作り、当時話題をよんだ名建築なのです。
その建物が、現在は記念館としてアトリエ、サロン、お庭を公開。
「岡本太郎記念館」は写真撮影がOK。しかも、見て、触って、芸術を体験できるんです。
岡本太郎氏の作品のすべてがここから閃き出たのです。
アトリエが当時のまま残っています。
キャンバスや筆、刷毛などがずらり。
クリエーターやアート系のお仕事をしている方には必見ですよ。
岡本太郎氏は1日のうち、同じ場所に留まって作品を制作することはなかったそう。
絵を描いていたかと思ったら、庭先の彫刻の作業場へ走り出て、彫刻を彫り始めたりと、敷地内を何度も行き来していたのだとか。
お庭には戦後に制作した歴代の大小様々な作品が並べられています。
そして有名な「太陽の塔」のような作品が、2階のベランダに?!
思わず写真を撮りたくなってしまいますよ(笑)
青山や表参道と聞くと、ファッションの街というイメージが強いかもしれませんが、ファッションだけでなく、歴史や芸術もある、奥深い街なんですよ。
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